(太郎山で撮った写真から)

伊藤紀子さんの講演記録⑤

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 後半は、言葉ということを考えてみたいのと、昔話のもつ魅力みたいなものを「ももたろう」の例をとってお話ししたいと思います。

 「ももたろう」の話は、日本全国いっぱいに散らばっているんですね。おおまかに申し上げれば、南や西の方は三年寝太郎のようなとってもなまけ者のももたろうが、ある日突然自立するというパターンの伝えられ方をしているものが多いんです。面白いのは香川県の例ですけど、モモが流れてきて自分で食べておいしかったので、「家にいるじいの口の中にもモモが飛び込め」っていうと、飛び込んでいくの。そうすると、おじいさんもおばあさんも若返って、そして、自分の実子といて桃太郎が生まれるという設定になっているものもありました。

 それから、桃太郎は、犬、サル、キジに出会うけれども、犬、サル、キジじゃなくてね、臼と、かにと、馬の糞かな?あの、さるかに合戦が一緒になった話もあったりするんです。

 東の方にきますと、桃太郎が鬼と戦った後、宝物を持って帰ってくるという話が多いんです。

 ところが、東北の方は、カラスがやってきて「お姫様がさらわれたから助けに来てくれ」と言わせているのね。桃太郎は、鬼の宝物はもらわないで、さらわれたお姫様だけを連れて帰って来るという。だいたい大まかにその三つのパターンになっています。

 松居直さんという方が再話なさったのは、その東北の方に伝わる桃太郎をもとになさっています。松居さんがなぜ東北の方に伝わるものをもとにしたかということを書いておられるんですけれども、そのことを言う前にちょっと考えてみましょう。

 桃太郎の話を考えるときに、鬼と、鬼が奪った宝物を別のものに設定してみましょう。

 鬼を異民族と考えてみましょうか。そうすると、鬼がある民族から奪い取った宝物に匹敵するその民族にとって一番大事な物とは何でしょう。皆さんもちょっと考えてみてください。皆さんにとって、あるいは日本人にとって、何が一番大事だと思いますか?その民族にとって一番大事なもの。

 あのね、前にそういうふうにきいたときにね、「こども」と答えてくださった方がいたんです。それも、うん、頷ける答えなんですけど、松居さんはね、鬼の宝物に匹敵するもの、その民族にとって一番大切なものは、その民族の「ことば」と考えたんです。分かるような気がしませんか?「ことば」です。私たち日本人にとって日本語がとても大事だということ。もしね、どこかの国に占領されて、明日からフランス語でしゃべらなくてはいけないとなったら、すべてフランス語でしゃべらなくてはいけないとなったら、皆さんどうしますか?やっぱり口をつぐむでしょ。しゃべれない。

 「ことば」って、その国、その民族の思想を生み出すものだし、何よりも私たちの生活そのものではありませんか。その「ことば」を取り上げることほど、それを使っちゃいけないということほど残酷なことはないんですね。

 日本でもね、沖縄の人たちに琉球語を使ってはいけないという政策をとったことがあるそうです。琉球語を使うと「わたしは悪いことをしました」というプラカードを持って学校中回るという罰を与えたこともあるそうです。考えてみれば、それは非常に残酷なことだったんですね。「ことば」って、それくらい大事なものなんです。

 だから、松居さんはお姫様だけを連れて帰って来るという再話にこだわってこの本をおつくりになりました。赤羽さんの挿絵もとても素敵ですから、この「ももたろう」(福音館書店)読んでみて下さい。

 「桃太郎」もそれ以外の再話で腕時計をしている桃太郎が出てきたりね、すごくいい加減な桃太郎があるみたいだけど、昔話はときどき変な再話があるから気をつけて欲しいんです。

 「三匹のこぶた」という話があるでしょ。あれは、長男次男がオオカミに食べられるんですね。三男の一番弱いこぶたが、オオカミと三回の取引をして、ついにはオオカミを晩ご飯にコトコト煮て食べてしまうんです。ぶたがオオカミを食べるって、そこで終わるんです。

 その絵本を「お話の森」で読んだ時に、「こぶたがオオカミを晩ご飯にコトコト煮て食べてしまいました」って言ったときに、「あー、じゃあ、もうオオカミは来ないんだね。」といった子どもがいたのね。「あ、これでいいんだな」って思いました。

 ただね、こういう嘘のような本当の話があるんです。こういう席で「三匹のこぶた」の話をしたらね、あるお母さんが、お子さんが最後の場面でね、―私がちょうど紹介した絵本は大きなお鍋の中にオオカミが煙突から侵入してボチャーンと落ちているところで終わっているんだけどーそこがとても怖くって嫌がるので、おおかみが食べられたと言わないで、「オオカミはアッチッチといってやけどをして森の中に逃げていきました」というふうにしたら、そのときは子どもが落ち着いたんだそうです。

 ところがね、保育園の行き帰りに、木がワーッと植えられている雑木林のようなところがあってね、そこを通るたびに「オオカミ来ない?オオカミ来ない?」ってずっと言っていたと言っていました。

 昔話って最後はまあ、悪いやつは煮て食べられちゃったり、あつあつの真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせられて死ぬまで踊らされたり、そういうふうにして殺されたりするんですね。私たちはどうも、その辺のところでちょっと躊躇するんだけれど、聞き手の子どもたちにとっては、やはり、オオカミは死んでもらわないといつ火傷を治してまた自分のところに来るんじゃないかといつも思ってしまうわけですね。

 昔話の最後の場面は、大人にとっては残酷という意味合いで受け止めるかもしれないけれど、小さな子どもにとっては悪い人は死なないと胸に落ちないということ。

 だから、その辺を変にお砂糖をかけたようなーオオカミとぶたが手をつないで最後は仲良くなりましたーというのは絶対やめて下さい。

 昔話というのは、そもそも我々の先輩が伝えてくれた立派な文化なのですよ。その文化を、今の私たちが勝手に変えたらいけないんです。絶対にいけないんです。それは、先輩が築いてきてくれた文化への、ひとつには尊敬の意味を込めて、今の私たちが決して直してはいけないということを、昔話は伝えられたものをそのままちゃんと伝えるということが大事なんです。しかも、オオカミが殺されるという事は、オオカミが死ぬ場面を執拗に描いたりはしないでしょ。昔話は、ただ、コトコトと煮て食べちゃいました、という、それだけのことです。そこで血しぶきが飛んだとか、何だとか、残酷な具他的なことは一切書いていない。だからいいんです。だとすれば、テレビで見せるあの乱闘シーン、これでもかこれでもかと殴る方が、よっぽど残酷だということ。そういうふうに神経を回らせるところをちょっと変えて欲しいんです。

 文学の中での残酷性というのは、必然があって初めてそういうかたちになるわけですから、その場合には、残酷であっても、残酷では無いということです。決して残酷ではないんです。そこのところを考えて、いろんな昔話の本が出ているとしたら、そこはちゃんと大人がみてやらないといけない。

 でも、だからといって「これは残酷じゃないの、あなたにとって人生のとても大事な乗り越える場面なの」と言って、嫌がる子に無理矢理読ませるというのは考えものですよ。

 それは、乗り越えられる心が育ったときに、初めて乗り越えられるんだから、嫌だと思ったら「それはしばらくやめようね。」と言っていればいいんです。そして、またいつか引っ張り出して来るときがあったときに、しゃんと乗り越えられるという・・・。

 皆、それぞれ、私たち人間は個人差があってね、それが三歳で乗り越えられる子もいれば、十二歳になって初めて乗り越えられる子もいるんです。でも、それで一喜一憂することはないということです。あなたはすでに三歳でそうなるべきだったなんていうのは、その子にとって、とても失礼なことだと思います。

 絵本の後ろに「読んでもらうなら4歳くらいの・・・」とか書いてあってね。こだわっている人がいますが、図書館でね「公共図書館員っていいんだよね」って言った六年生の男の子がいました。「だってさあ、僕がここで『ぐりとぐら』のお話を読んでいても、だれも文句を言わないでしょ。」と言いました。

 本を読むということは、きわめて個人的な作業ですから、まあ、たとえ自分の子どもであっても、いろいろ言わないで欲しいんです。

 さて、昔話の「ももたろう」も三度の繰り返しがあります。三度の繰り返しって多いですよね。

 実は、この三度の繰り返しの後に大冒険が控えているんです。「ももたろう」でいえば、きびだんごを介して、犬と、サルと、キジと、ほとんど同じ言葉のやり取りがあるんです。

 私たちは、面倒くさいからつい省いて「前のと同じ」とか言ってパラッとめくってしまったりするんだけれど、でも、その後の大冒険のためには、その単純な三度の繰り返しで聞き手は心を整える必要があるんです。

 というのは、「ももたろう」を読むときには、聞き手は桃太郎になって、桃太郎と一緒に旅をしたり冒険をしたりするんですね。そして、その桃太郎が思いきって冒険するためには、聞き手も心を整えるということで、三度の繰り返しがとても大事なんです。

 例えば、子どもが夜、元気にしていてムズムズとなかなか寝つけないということがあるでしょ。自分は寝たいけど、なんだか眠れない、寝そびれるということがあったときに、布団の上を、みなさん、トントン、トントン、とたたきませんか。こういうふうにね、何度も何度も。やわらかくたたいていると、だんだんと子どもが自然に深い眠りに入っていく体験は、その皆さんもお持ちだろうと思うけれども、あの布団の上をトントン、トントン、たたいて心を整える作業が、三度の繰り返しの中にあるということです。だから、とても大事なんです。

 そしてね、昔話のあの短い五分から十分ぐらいのお話の中には、ときには自分が我慢しなければいけないなとか、ときには思いやりを持たなきゃいけないな、あ、ときには思い切って跳び上がることも大事なんだなということが、すごく具体的に書かれているでしょ。「ももたろう」の話をイメージしてもおわかりだと思います。

 思いやりというところでちょっと触れようと思いますが、桃太郎は、犬・サル・キジに自分のを半分にしてあげるというふうな再話もある中で、家来になるならあげるおいう再話があったら、それはいけない再話です。決して桃太郎は相手を家来というふうには言っていません。仲間なんです。

 昔話は民話って言われる場合もあるでしょう。民話は、私たち権力のない民衆のお話です。つまり、その中では、上下関係では絶対話が進まないの。例えば、お殿様が出てきても最後にはちゃかされて立場が逆転するということはあっても、権力者が最後まで主人公でありうるということはないんです。

 それは、人々がそういう話をききながら、力を得ていったんですね。苦しい日常の生活の中でお殿様をやっつけるということをしながら、人々はなにかと生きる力を得ながら生きてきた。そういう話ですからね。決して上下関係ではありません。そこも気をつけなければいけないところですね。

 人生を見るような思いが、その五分から十分の間に、子どもたちに、実はこれから彼らが歩んで逝くであろう人生を、また、垣間見せてあげられる。そういう話でもあるんです。昔話はすごく単純で同じ事の繰り返しみたいで、退屈だわって思われることもあるけれど、私たちの先輩たちの生命力みたいなものが、ちゃんと備わっているんです。だから、昔話をもう一度見直してみて下さい。

 それから、お話をしたり本を読んであげるときに、「  」(カギ括弧)だから演技をする必要があるんじゃないかとか、私素人だから出来ないわ、という声をよく聞くんだけれども、本を読んであげるということはね、子どもたちにしてみれば、今、お父さんや、お母さんは自分の方だけに向いてくれているな、というひとときでもあるわけですよね。

 ですから、本の楽しさもさることながら、自分の方を向いていてくれる、そして、読み手と自分をなんとなくこうフアッとつつむそのなかが、とても心地よくって、彼らは「本読んで、本読んで・・・」と・・・こう言うわけです。

 だから、読み手がどうとかこうとかじゃあないんですね。「早く寝させて、テレビ見たいわ」とか「早く寝させて、台所の仕事片付けちゃいたいわ」とか思って、つい、「字の少ないのにしなさい」とか、「ページ数の少ないのにしなさい」とか、「一冊だけよ」とかね。そういうことがあったとしても、読み手自身がその絵本を楽しんでいると、一冊でも子どもたちはすごく満足して深く眠れるということあるんじゃないですか。「読んであげる」とかじゃなくて、自分のために読むということ。やっぱり絵本って子どもだけのものじゃないという話を次回したいと思います。私たち大人も、その楽しみを子どもを持ったという幸せの体験からかちとってほしいと思います。

 文字の言葉が生き生きと子どもたちの中に取り込まれていくにはね、先に言ったように、自然の中でいろんな体験をすることも大事だし、お友達と関わることも大事だし、おじいちゃんのばあちゃんと関わることも大事だし、そんないろんな体験があって初めていきてくるものだと思います。

 それから、普段のね、皆さんが子どもたちにどういう言葉をかけてあげているかなということを、ちょっと考えたいんです。「ダメッ、ダメッ、」っていうのはしょっちゅうでしょ。「はやくっ!」「またっ、アーッ、汚したっ!!」と、こう言ったときに一番最後が詰まりませんか?「バアーカアー」とは言わないでしょう。「バカッ!!」て言うと最後に「ッ」という詰まる音がつきます。ニンベンにアシと書いて「促」(ソク)音、詰まる音のことです。どうも詰まる音というのは、人の神経を逆なでするようです。でも、例えば「いない、いない、ばあ-」と言ったときには、なんとなく柔らかいトーンで響いていくと思いますが、「イナイッ、イナイッ、バッ」とは絶対言わないでしょ。

 「いなーい、いなーい、ばあー」と言って、なんか気持ちいいなあっていうのは、あいうえおの母音が響いているから。だから皆さん自身もゆったりしたときにはね「きょうは、おりこうだったねえ」ってな言い方をたぶんすると思います。子どもたちが、なんかとろーんとした気持ちになるのは、お母さんの今日の言葉は、すごく気持ちいいなあ、やさしいなあということなんですね。そうなると、言葉っていいなあ、そういう言葉への信頼感を獲得して、初めてお話とか文字のものとかがいきてくるような気がするんです。

 決して難しいことじゃあないと思います。ご自身の小さい頃のことを語るということ。「おかあさん、小さいときはねえ、雨が降るとよくおはじきっていうものしたんだよ。」って。これだけでもおかあさんの子どもの頃のこと、ご自身もぱーっと子どもの頃のことが浮かんでくるでしょう。

 つまり、そのことが、お話を語るということの原点なんです。是非、身近な人にご自身を語ってあげて欲しいんです。

 もし、この地域になにか昔から不思議な話で伝わるものがあれば、それを是非大事にして伝えてあげて下さい。そういうことが、実は大きくなったときに力になっていくんだなあって思います。

(おわり)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(太郎山で撮った写真から)