伊藤紀子さんの講演記録④
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もう一個の例を紹介します。「少年たちの心の風景」という題で書かれていました。これは2年前のちょうど今ぐらいのことですね。こんな事件を覚えていますか?大阪で15歳の少年が、同じ15歳の少年2人に刺し殺されるという事件がありました。
トランプで博打をしていて1人が四十万円負けて、もう1人が十万円負けて、返済を迫られたので2人で共謀して友だちを殺しちゃったという。
それから、中学三年生の少年が小さな男の子を乗用車で三日間連れ回した。誘拐未遂になってしまったようですけれども、そういう事もありました。取調官が彼に「どうしてそんなことをしたのか」ときいたら、彼は「一人で寂しかったから」といったんですって。
今、登校拒否の数字が4万人という数字になりました。1988年には3万人だったんです。この2年で1万人も増えました。「三角児童、三角生徒という言葉を知っていますか?」と書いてあるんですが、何だか分かりますか?あのね、家と学校と塾。その3つの点を行ったり来たりするから、三角生徒・三角児童っていうんですって。私が子どものときには絶対そんなことは考えられませんでした。
私たちは、もっと子ども同士の関わりで遊んだり、学んだりしたんだけれども、松本にも結構スイミングスクールとかいって、いっている子どもたちがとてもいるんだけれども、私、あれ、無意味だなあと思って、友だちがスイミングスクールに子どもを行かせていたので、可愛そうねえって、かなり批判したんですね。そしたら、「伊藤さん、何言っているのよ。あのねえ、行き帰りのバスの中が子どもたちは楽しくって行っているのよ。」って、こう言うんですね。行き帰りのバスの中に友だちがいっぱいいるから、はじめてそこで友だち同士関われるんですって。そんなのおかしいと思いませんか?不自然ですよね。
私は、どうしても馴染まないなあ、ああいう姿は。そういうふうに自然に子ども同士で戯れることでね、異年齢の集団で、私なんかは遊んだのですけれども、上の子は、やっぱり下の子の面倒を見るっていうかね。決してみそっかすにしないで、ちゃんと仲間として加えて遊ばせてくれるっていうのかな。そういうことで、自分もいる。思いやりってことをね。今度は下の人が入ってきたとき、自分もそういうふうにしてあげようとか。そういうことが生活の中でちゃんと身についてきたんじゃないかなって思うんです。やっぱり、それも、丁寧な仲間同士の関わりの中でね。
で、そういう状況、武石村ではどうでしょうか?子どもたちが外で群れて遊んでます?遊んでません?んー、あんまり外で遊ぶ子どもって、見ませんよね、まわりでね。やっぱり車が危ないとか?ん?そうですか?
だとすれば、とてもなんか残念な気がしますねえ。
もっと、大人は放っておいてくれたでしょ、私たちの子どもの頃ってね。親もすごく生きるのに大変だったと思うけれども、合理的な生活の中で、結構親は目が届くし、子どももだんだん少なく産むようになっちゃったし、そんなことで、子どもの生活の中に大人が介入しているってことはありますよね。そのことが、どうも彼等の伸びる芽を摘むような部分ってあるんじゃあないでしょうかね。
新聞回しましょうか。
少しこだわって集めてみますと、子どもって、今子ども時代を送っている人たちって、大変だなあって思うのはね、道徳、発達度テストとか、性格テストとか、そういうものがあってね、余計なお世話っていうことばかりあるんですよね。それから、内申書の問題も、やっぱり出てきますね、中学生ぐらいになると。
それから、給食が今年100年になるそうです、学校給食が始まってから。私は、脱脂粉乳で、あの、脱脂粉乳はいやでした?私、好きだったんですよね。おいしくておいしくて。コッペパンでね。ホントにささやかな喜びでしたよ。ときどき、なんか、運動会なんかあると、コッペパンを丸ごと揚げて、グラニュー糖をパーって振ってくれるの。あれ、ご馳走だったんですよね。そういうときには、ゆで卵が半分切ったのがついていたり、リンゴが半分ついていたり、いつもは四分の一なんだけれども、そのときは半分。それが、うれしくてうれしくてしょうがないという素朴な給食でしたけれども、今はね、グルメ嗜好なんですって。何しろすごいもの食べているんですよね。しかも、あれだそうです。まず、デザートから先に食べるっていう話もありますけど、業者が給食で子どもたちに人気のあるメニューを参考にして、つまり、それを商売にする。
それから、これは登校拒否の問題が出てきていますけれども、調布市の隣に三鷹市という市があるんですけれども、そこでは登校拒否の子どもを、登校拒否児のクラスを作って、そこに入れるということで、今、賛否両論です。こういう隔離みたいなことを皆さんどう思われますか。私は大反対ですけれどね。
人間って、いろんな生き方をしていいはずなのに、どうして枠の中だけで生かそうとするのか。枠から外れると、すぐにレッテルをバンと貼って差別したがるのか。すごく罪だなと思います。気をつけないと、私たち自身もそういうようなことを日常やっているんですよね。人ごとではなくってね。それは気をつけなきゃいけないって思うんですけどね。鈍くなりたくないなあと思うんです。
例えば、相手を殺しちゃった中学生の話を今しましたけれども、本当に新聞を見ていると毎日辛いことばかり起きていますよね。
そういうときに、私、是非、子どもたちに、相手を見るときに相手の人生も見えるような、そういう感覚を伝えたいなと思います。
それはどういうことかというと、七年前に、中学生が横浜の山下公園にいた浮浪者を遊びの対象としていじめていたんですね、結果的に殺してしまったんです。この事件を覚えていますか?大変ショックでしたね。ところが、去年、また中学生が仲間をいじめ殺しちゃった事件があって、それを読んだ時の衝撃は、7年前に中学生が殺人を犯したときの衝撃ほど私は大きくなかったの。だから、あっ、私も鈍くなっているなという感じがしたんですけれど、その少年たちをずっと追っている記者がーさっきキキちゃんの話をしてくれた彼女ですがー話してくれたんです。
その少年たちに係官が調書を取っていくときにね、彼らがどういうふうに浮浪者の人を殺していったのかというのをね、背筋が寒くなるくらい冷静にずっと死ぬまでの状態を彼らはきちっと話しているんです。本当に背筋が寒くなるくらいです。彼らが浮浪者の人たちのことをどう言っていたかというとね、「あいつら」とかね、「あのくろいやつら」とか、つまり自分と同じ人間だって見れなかったの。
でも、係官の人が「君たちがあやめた人はこのおじさんだったんだよ」といって、たまたまある新聞記者が殺された名前は忘れたんですけど○さんという人の写真を撮っていたのを見せたんです。その写真は、すごくその人のひとの良さが出ているような、とてもいい写真だったそうですけれども、その写真を事件を起こした少年たちに見せた、その写真を見たときに、彼らは初めて自分たちは人間を殺したんだという、初めてそのときに自覚したそうです。彼らはその後眠れぬ夜が続いたりご飯が喉に通らなくなったり・・・初めて自分たちが、自分と同じいのちを持つ人を殺めてしまったという大変なことに気付いていくの。
そういうふうに、相手が見えなくなったときがとても危険じゃないかなと思うんです。もし、彼らに、あのおじさんがどうして今いるんだろうかと思う気持ちがあったり、このおじさんにもきっといろんな人生があったろうなとか、このおじさんの名前は何ていうのかなとか、その人の人生を思う気持ちが少しでもあったら、そんなことはたぶんできなかったと思うんですね。
私は、ここで一冊の本をお伝えしたいんです。「赤ちゃんのはなし」(福音館書店)という本です。
これは、マリー・ホール・エッツという女性が描いています。「もりのなか」とか「わたしとあそんで」「ジルベルトとかぜ」とか、日本では7冊か8冊くらい翻訳されているそうですけれども、これがそのうちの一冊です。
マリー・ホール・エッツという女性は、画家になる前にはとても優れたソーシャルワーカーだったそうです。アメリカ人です。ヨーロッパで福祉施設をつくるということで、彼女がその手腕をかわれてヨーロッパへ渡るんですね。ソーシャルワーカーとして。ところが、ヨーロッパに渡るとき、受けた予防接種の薬の量を間違われて彼女は体を壊してしまうんです。結果的には赤ちゃんを産めない体になりました。産む産まないという自由はあるけれども、でも、やっぱり産めないと宣告されたときの女性の悲しみはどんなだったかなあと思います。その彼女が、自分の身体を壊したために最初の夫にも死に目にも会えずに別れたんですね。それから、その後、エッツ博士というお医者さんと出会って、彼女がエッツ博士と共に八年間の歳月をかけた、これは、性教育の本なんです。
ところが、エッツ博士も癌におかされていて、彼は十年間の闘病生活の後に、マリーより先に逝ってしまうんです。その闘病生活をね、マリー・ホール・エッツ夫妻は、シカゴというところの郊外にラビニアの森というところがあって、そこで療養しながら克服していくんですけれども、彼女が、もういのちの限りが分かっている夫をみながら、自然の中に身を置いたときに、彼女自身、はっと気付いていくわけです。「ああ、自然には永遠のいのちが約束されているんだ」ということに気付いていくの。考えてみれば、人間も自然の一部なんだということを彼女は思い出して、初めて悲しみを克服できたんです。
その彼女の心象風景を「もりのなか」という作品に、彼女はあらわしています。機会があったらその本も読んでみて下さい。モノトーンで、彼女はいつもこう、抑えた色調で、本当にほとんど色彩を、いろんな色をつかわないでとても静かなタッチで絵を描き、お話を書いています。それは本当に静かに丁寧に子どもたちに伝えたいなと思うんです。感動が静かにひたひたと伝わってくる作品をたくさんあらわしておられます。
今日は、そのエッツの作品の中で「赤ちゃんのはなし」だけを持ってきたんですけれど、彼女は私たちのいのちというものをいくつかのパターンでこんなふうにとらえています。最初ちょっと見えにくいかもしれませんが、文章だけきいてください。
「はじめはとても眼のいい人でも・・・(絵本を読みきかせる)・・・」
エッツは、まず私たちのいのちはつながっているよといっていますね。わたしは、お母さんから、そのお母さんはそのまたお母さんから、そのまた・・・ そして、わたしのいのちは自分の子ども、その子どもはまたその子ども・・・というふうにね。
そう考えると、私ひとりぼっちじゃないんだなというふうに思いませんか?つながっているんだなって。
それから、エッツは次のときに「卵」、いのちというのは皆卵から生まれてくるのよって書いています。これは、人間だけじゃなくて、ねずみだって、くじらだって、おたまじゃくしだって、いのちあるものは皆同じなのよっていう、いのちは皆同じだけ価値があるのよっていう言い方をしています。
そして、いのちはつながっていて、いのちは同じで、でも一人一人のいのちはかけがえのないものよっていうことを四ヶ月過ぎたときにね、個性が生まれるというところで語っています。
だから、あなたがた一人一人はたった一人しかいない大事ないのちなんですよ。例えば、あなたはマラソンが速いとか、あなたは英語がよく出来るとか、価値があるとか言うことじゃあなくて、あなたはあなただから価値があるんですよということをエッツは言っています。それから、いよいよ誕生のシーンです。
「お腹の様子に気付いたお母さんは・・・(絵本を読みきかせる)・・・看護婦さんもにっこりしました。そして、お父さんも・・・・・・」
最後はにっこり笑うところでこの話は終わっています。
ああそうか!私も実はこういうふうにして生まれてきたんだなあと、こう改めて思いますね。皆こういうふうにして生まれてきたんだなって思います。こういうのをちゃんと子どもたちに伝えられたらいいなあって思います。
次に続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・