(太郎山で撮った写真から)

1990年3月16日
今から34年前になります。
伊藤紀子(いとう のりこ)さんにお話してもらったときの記録があります。
平成の大合併の前、まだここが武石村だった頃でした。


伊藤さんと出会ったのは、松本市あがたの森図書館でした。私はお話の勉強会に参加するために、毎月三才山トンネルを越えて松本市あがたの森に通いました。
伊藤紀子さんの語りとお話は心に響くものがあり、私にとって大切な時間でした。
伊藤紀子さんは公共図書館員として、また、一人のひととして、子どもたちと私たちひとりひとりに誠実に向き合ってくださっていました。そして伊藤さんご自身のいのちを生きていらっしゃいました。

この講演は、伊藤さんが膵臓癌の治療に取り組んでいるさなか、旧武石村に来て伝えて下さったものです。あとで伊藤さんが私に「実はね、あのとき腰が痛かったの・・・」と話してくれたのを思い出します。もっと伊藤さんのお体をいたわることができる自分でいられたらよかったと悔やまれます。伊藤さんがご自分の体の痛みを感じながら、それでも伝えたいと思ったことがありました。読みかえしながら、伊藤さんの声が聞こえてくるようでした。伊藤さんの思いが伝わり胸が熱くなりました。

34年前という時間の流れは、何をもたらしたでしょう。
伊藤さんのお話を聴いて大きくななった方々は、今、どのような日々を過ごしていらっしゃるでしょうか。34年前に生まれた赤ちゃんは、お母さんお父さんになっているかもしれません。そのお母さんお父さんは、子どもたちと一緒にどんなときを過ごしているでしょう。
社会、世界も大きく変化していることに気付かされます。私たちの暮らしも、当時の予想をはるかにうわまっていることが感じられます。いえ、予想をうわまるとかそうではなく、懸念していたことが明らかな姿を現しているともいえます。一方そればかりではなく同時にまた、そこにあるいのちが輝く希望の姿や歩みに出会うことがあります。それは何なのかを、そして、私は、今何をしたらいいのかと考えさせられています。
伊藤さんが伝えて下さったことを皆さんと共有することで、今ここを生きているひとりひとりとこれらの未来に向けて、何かひとつでも一緒に考えていくことにつながることを願っています。

この記録は、講演をカセットテープで録音したものを、テープ起こしをして文字にしました。テープ起こしの大変な作業を友人がしてくれました。カセットテープの入れ替えのときの内容が録音できずに途切れているところがありましたが、不自然にならないようにつないであります。完全な記録ではありませんが、できるだけ内容が伝わるようにしました。また、伊藤さんの語り口を残すようにしました。読む文章としては気になるところがありますが、語り口の良さと伊藤さんの息吹をそのままに感じていただけるように、敢えて直さないようにしました。
一回の投稿ではおさまらないと感じる内容なので5回に分けて載せることにしました。
「子どもと大人に楽しいお話をー語りのもたらす力ー」伊藤紀子さんの講演記録①~⑤
少しでも多くの方に届きますように。

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子どもと大人に楽しいお話を

 「語りのもたらす力」

                             1990年3月16日(金)

                        伊藤 紀子(いとう のりこ) さん

 

今、とても素敵なご紹介をしていただいて、ちょっとまだ胸がいっぱいの状態です。

 今日のテーマは「子どもたちに楽しいお話を」というのですけれども、私はこのテーマを少し変えてみようかなと最近思うようになりました。「子どもと大人に楽しいお話を」というふうにタイトルをつけてみようと思っています。

 今日は、ささやかな自分史みたいなものを語らせていただいて、私がなぜ図書館員という道を選んだか、それから、なぜ語りにこだわっているのかということを太い柱にしてお話をしたいと思います。そのあと、機械の言葉と私たちの声がどのように違うのかなということを一緒に考えたいと思います。それから、昔話の面白さのようなものをお話ししたいと思います。

 私たちは「生きる力」を「お話」を通してなんとかして子どもたちに伝えたいなと思っているんです。私自身が東京の町田市というところで生まれたんですけど-40年前です-私が記憶しているのは、3歳ぐらいの時、近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと自然の中で遊びました。まだその頃は、わさび田があって、しかも、天然のわさびが生えているくらいきれいなんです。清水が湧くところが東京にもあったんです。今はもうみんなそういうところがつぶされて、全部集合住宅になっているので、見る影もないんです。

 私ぐらいの年代の方は、たぶん子どもたちの時に自然の中で子どもたちだけの空間というのを持っていたんじゃあないですか。実は、そういうことの体験が、今、私がこだわって子どもたちに昔話を語るというところでバックボーンになっているなと思うんです。

 例えば、「いろり」という言葉が、昔話の中で「いろりばたに」と出てきたとします。「いろり」は、まあ百科事典を引けばこういうものなのかという概念みたいなものが書いてあるけれども、私には子どもの時に祖母と一緒にいろりで火をくべたり、お餅を焼いてもらったり、いろりを囲んで家族がなごやかに過ごしたという体験があります。そうすると、私が「いろり」っていうふうに子どもに語るときには、その場の場面がぱーっと浮かんで「いろり」という言葉が出てくるんです。「いろり」を全然知らないで、絵だけ見て「いろり」と言うのとは実はずいぶん違うんですね。聞き手は同じ「いろり」なんだけど、語り手がそこにいろいろな思いを込めて語るのとは、すごく違っているんじゃないかな。

 武石村は、こんなに自然に恵まれたいいところで、まだメダカとかオタマジャクシなんかいたりして、子どもたち同士の空間があるんではないかなあと、あってほしいなっておもっているんだけれども、そういう体験を子どもの時にちゃんと体験させてあげるということが、案外大人になって岐路に立ったときふっとそのことを思い出すことで力が湧いてくるってことがあるんですよね。

 例えば、おじいちゃんおばあちゃんが隣の家に住んでいたんですが、家で親に怒られる、そうすると「おじいちゃーん」って行くわけですよね。そうすると、おじいちゃんおばあちゃんっていうのは、孫をすっぽりと包んでくれるような愛情があるでしょ。何もしなくても「おお可愛や可愛やっ」と言ってくれることで、すごく救われるっていうのかな。そのことが以外に大人になって、そういうふうにしてくれたっけなあと、私の支えになっているということが多くあるんです。そういう思いをたっぷり味わわせたいなって、そのことが実は生きていく力になっているんじゃあないかなって思うんです。

 祖父のところで定期的に指圧をしてくれる中年のおばさんがいたんです。養女をとっていてそのお姉さんが、たくさんの昔話を知っていたんですね。私はその人から、今思い出せば「牛方とやまんば」という話を初めてききました。やまんばが、私、本当にいると思いました。というのは、それだけ自分の周りにやまんばが住んでいそうな自然が残っていたからなんです。

 人間の力でははかりしれないなにかが、こうおそろしいもの、怖いという意味でなくてね、畏敬の意味を込めてなにかこう、人間の力では克服できないものに対する畏れみたいなものが日常の生活の中にあったんじゃないかなって思うのね。母方の祖母の家が岡谷にありまして、ちょうどその縁側のところから向かい側の山に、よく私は狐火がね、こう、まるで行列を作って歩いて行くのを見たことがあるんです。おばあちゃんにきいたら、「あれは、きつねの嫁入りだ」と教えてくれました。そこの前に中央道が走ってしまいましたから、もう狐火を見ることは無くなってしまったんです。そういう風に、私たちの生活の中から自然がどんどん奪い取られていく。

 私たちの身の回りでどういうことが起こっているのかということをちゃんと見ていかないといけないんじゃないかなと思っています。狐火を見たって見なくたって、どうってことないって言われればそれまでだけれど、そういう自然のその不思議な営みから、実は人間も自然の一部だという思いが、生活の中で感じられたんじゃないかなって思います。道路ができて確か便利にはなりました。それから品物もたくさん入ってきましたからね。なんかこう物に囲まれて私たちの生活は一見豊かになったかもしれないけれど、その代わり何を失ったのかということを、今私たちが、この時代を生きる日本人は、きちっと見ていかないと大変なことになると思います。

 私は十年間、長野県で図書館員をして昨年四月に東京にまた帰ってきたんです。十年ぶりに東京で暮らすようになってから、私は、東京は病んでいるなと思います。まず、コンクリートの道だけでしょ。私は集合住宅に住んでいますから、コンクリートの建物からコンクリートの道路を歩いてコンクリートの建物にただ生活している。幸い今、私のいるところは調布市の中でも緑が最も多いところなので、小鳥が来たり、土を踏むということができますが、それ以外ではほとんどそういうことがなくなりました。そういうことが本当に私たち自身が快適に暮らす空間なのかどうかと疑問を感じています。

 あがたの森は、とても小さな図書館だったのですけど、私が一番いいなと思ったのは、本を借りに来て下さる、あるいは講座に参加して下さる市民の方々と私のような職員とがね、本を貸し出す、講座を提供する、受ける、というだけの関係じゃなくてね、私自身も一市民として、ひとりの人間として、あがたの森に集う人たちと仲間になれたということです。それは、ある程度の狭い空間、ある程度の人数ということに限定されているんじゃないかなと思います。

 東京の生活は確かにびゅーんびゅーんという感じで、とにかくありとあらゆる物があって、一見はなやかで便利ではありますが、実は人と人との関係っていうのはとても育ちにくい土壌だなって思います。私は今、公民館というところで働いていますけれども、とっても人と人との関係が希薄です。そして、とってもガードが堅いんですね。あれは、さぞかし生きにくかろうなあと思いながら、私は十年ぶりに帰って、みているんです。

 私は、昨日こっちに来たんですけどね、だんだん緑は多くなるし、空気もすごくいいしね、それから何よりも、人がゆったり歩いているなって感じがしたんです。それに、知らない人と声を掛け合うってことするでしょ。道で会って、どこの誰ってわからなくても「おつかれでございます」って声がかかるし、タクシーの運転手さんだって「どこから来たの」とか「今日はいい天気ですね」とかね。どうってことない会話ではあるんですけれども、そういうふうに知らない人同士が話すという空間があって、私、そういうのすごくこだわりたいなあと思っています。人が生きていくということは、いろんな関わりの中でこそ生きていかれるものだから、こういう空間を皆で大事にしあっていきたいなと思うんです。

 昔話を、お母さんお父さんに、「ぜひ自分のお子さんに語って下さい」とか「絵本をどうぞ読んであげて下さい」という話をよくするんですけれども、そういうときによくきくのは、「うちの子、昔話をきくのすごく好きなんです」ということなんです。「あ、お母さんがお話しするんですか?」というと「ううん、カセットでね。今、いいのがあって、自分で全部操作してやるんですよ」って。

 それでもいいでしょうね。それからデレビで昔話の番組を見るのもいいでしょうけど、でも、それだけではちょっとさびしい感じがします。

 私たちが言葉を獲得していく過程をちょっと考えてみて下さい。例えば、お母さんがおなかの中に赤ちゃんを宿しているときに、やっぱり語りかけていると思うのね。おっぱいを飲んでいるときも「ほらよく飲みなさい」とか「今日はよく飲めたね」とか、おしめを替えるとき「今日はいいウンチしたね」とかね。きっといろいろおっしゃっていると思うの。

 実は、人はそういう関わりのなかで「あ、言葉っていいなあ」っていうふうにだんだん思っていく。だけど機械は「そこのところ面白いからもう一度、その唱え言葉言って」というときにできない。もちろん、巻き戻すという作業で聞くことはできるけれども、すぐ目の前でお母さんが話してくれたら、「つんぶくかんぶく というのが面白いから、もう一度やって」と言ったらすぐ「つんぶくかんぶく つんぶくかんぶく・・・」と、その子が満足するまでそれを言ってあげられる。そういう信頼関係で初めて言葉が育つもんじゃないかなって思うんです。

 機械では、人間の言葉は育たないんじゃないかなという、そこのところを考えたいですね。なんだか知らないけれど、私たちの生活は、日々追われる感じで、はやい方が得っていう気持ちがたぶんあると思うんです。ただ、そのはやさということの中で、私たちが見落としてきたものをもう一度考えあっていきたいなと思うんです。

次に続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(太郎山で撮った写真から)