あるがままに存在するとは、どういうことなのだろうか。

私は、どうも、何かを気にしてしまって自分を見失っていることがよくある。

それも、自分の姿であり、あるがままの自分だともいえるかもしれない。

けれども、自分がどうしたいのかということより、誰かが感じていること、誰かが思っていることを気にしてしまい自分がわからなくなるのはなんとも不自由なことだと感じる。そういうことが重なると投げやりになり、そのうちにいろんなことに理由をつけて停滞してることに言い訳をして、一層の悪循環がやってくる。

人は人と関わり合って経験を重ねながら生きていくのだから、自分のことだけではなく他者のことに気付いて考えようとすることは自然なことだし、そのことでお互いに気付きが成長につながっていく。大切なことであり、人としての喜びでもある。

そう、人のことを気にかけるのは決して悪いことではない。人はお互いに、生きるていることを通して理解してより豊かな経験をしている。みんな違うから、その違いが豊かな気付きをもたらしていくのだから。

それが、どうして、こんなにも自分を制限して不自由に縛りつけてしまうのだろう。

私は、自分自身の感覚・心に注意を向けてしっかりと感じることを大切にしていないのだ。自分を大切にしないで、どこかなんとかなるかなと思っているようなところがある。いや、正確に言うと、なんとかしてほしいと思っているようなところがある。ついこの前も、自分のインナーチャイルドが、とか、子どもの時のトラウマとか言って、過去の体験と自分自身を整理して受け止めようとしていた。ここまでに大分長い時間がかかったな。

ようやく、落ち着いて、そんなことを言えるようになったところなのだな。
今もまだ、他者の感覚と心に注意を向けて気にしていくことが自分を生かすすべとなっていると勘違いしているのだろう。きっと。そうすることしか出来なかった。そうする方法を学び続けてしまったのだろう。

自分自身の感覚と心を不自由に制限している苦しさは、自分の感覚を鈍らせると同時に塊となって堅いものが溜まっているように重たい。

この状態をつくってきた経緯はそれぞれにある。自分にとって大きな学びがそこにあったとも言える。貴重な経験の積み重ねでもあったが、もうそろそろいいかな。

そろそろ、自分の人生の翼を折ることをしないで、自分の翼を広げて羽ばたくのを許していこうかな。だれもが持っている自分の翼を、今制限しているのは自分なんだとようやく気付いた。

65歳でここにたどり着いたことは、遅いのか早いのか等と考えたくなる気持ちを笑いながら、今ここにたどり着けたのを喜ぶことが出来る自分を褒めたいと思う。

気付いたことが大切なのだ。
気付くことが出来たら、次に進むことが出来る。
今までの方法を続けるか、別の方法に変えるかは、自分が選ぶことが出来る。

長年馴染んでいる方法は、簡単には変えられないかもしれないけれど、自分を自分らしく生きていくことに踏み出したいのであれば、そうなるように変えればいいのだ。

変えることは、変わること。

なりたい、と思っているというだけでは、変わらない。

でも、思ったら、できる。

思ったということは、チャンスがそこにあるということ。
よく自分の感覚にみみをすまして、自分をそのままに感じ続けてみよう。

自分の心が動くのを感じてしずかに追ってみる
唯々感じてそのままに
自分が聞いている音を聴いて捉えてみる
自分の呼吸が繰り返し息を吸って吐いているのを唯々感じて捉えてみる
自分の声が自分の中から生まれてくるのを感じて外に出して広がっていくのを感じて捉える
自分の身体が足の裏を通してこの地球に立って支えられているのを感じてつながっていく
ゆっくりと手を広げて上げていくと広い空に向かってひらかれる自分を感じていく

それは
自分自身の感覚であり
自分がここにあるそのままの存在が生きている
翼が広がり羽ばたく

唯々感じる

それでいい

これを繰り返して、繰り返して、自分自身をありのままに感じてあることを
自分のあたりまえにつながっていくのを練習するといい
そうしよう
生きることを楽しむ自分につながっている