みみをすます
耳を澄ます
「みみをすます」ということをすることが、一日の中でどのくらいあるかなあ

「みみをすます」を漢字に変換したときに「耳を澄ます」となりました。
「耳を澄ます」ふと気になったのです。

国語辞典(岩波 国語辞典 第六版)で調べてみました。
子どもが小学生の頃授業で使った国語辞典が、今の私を助けてくれているのですよ。結構やくにたちますね。
*「澄ます・清ます」
  ①清らかにする。(ア)液体の濁りを取り除き、澄んだ状態にする。(イ)曇りを取り去り、さえた状態にする。清らかな音を響き渡らせる。心を落ち着ける。邪念を払って心を静める。(ウ)『耳(目)を澄ます』注意を集中して聞く(見る)。

耳を澄ますとき、じっとして、その音を感じようとするのでしょう。
たくさんの音のなかから、ある音を聞き取ろうとしているのですね。
そうするためには、心を落ち着けて、心を静めて、集中していくことになるのです。だんだんに集中が深くなっていくこともありますね。
「耳を傾ける」という言い方があります。
「傾ける」は「あることに集中する。」(国語辞典「傾ける」から)
「耳」の項には、「耳を傾ける」(よく注意して聞く)とありました。
耳を澄まして聴こうとすると、体が耳を傾けて聴いている姿になるのでしょう。
「耳」①生物の、物を聞く働きをする器官。また、その耳殻。(ア)空気の振動を捕らえ、聴覚を生ずる器官。
音を感じて懸命に捕らえようとすると耳を傾けていくのは容易にイメージすることができます。よくある姿だと思います。それは耳だけできくというのではなく、その耳を働かせるために、全身で聴こうとしている姿、よく注意を向けて聞こうとしている姿なのだなあと思えます。

普段は意識しないで、自然に音を聞いている
いろんな音に囲まれて暮らしているのが当たり前になっているから
音を聞くことにあまり注意を払ってはいないような気がする
きっと、いろんな音を聞いているのだろうなあ
なんとなく聞いている音に囲まれていることに慣れてしまって
「みみをすます」ということがあまりなくなったのかもしれない

そういえば
「聞き流す」ということばがありました。
聞き流していることがたくさんあるような気がしてきました。

CDから流れてくる音を聞く
メディア機器から流れてくる音を聞く
人が話しているのを聞く
車が通っていった音を聞く
郵便屋さんがやってきた音を聞く
だれかが物を落とした音を聞く
泣いているこえを聞く
笑っているこえを聞く

聞き流していることが
当たり前になってしまってはいないだろうか
大切な音を聞き流してしまってはいないだろうか
耳を傾けて
耳を澄まして
心を向けて
聴くことを考えてみたくなりました。

「聞く」と「聴く」の違いですね。

「聴く」ことは体と感覚と心を開いて、つまり、体と心を傾けて聴くことにもなります。
耳を澄まして、心を向けて、集中して聴くことなのです。

聞いているよね
本当に、いろんな音を聞いているのです。
いつだって何かを聞いている
たくさんの音に囲まれていることに気づいてきます。

地球は空気を纏っている星
空気の振動を通してたくさんのことが伝わっている
いのちがそこに生きていることが伝わってくる
そして、生きているから
その振動をとらえて気づき知ることができるのですね。

そういえば、いつだったか
(もう何年も前になるなあ
 鹿よけの鉄線が張られる前だったような気がする)
向こうの山麓あたりから
なにかの鳴き声が聞こえた
高く細く長く響く声を聞いた
なんだろう
ドキドキした
みみをかたむけた
なにが鳴いているのだろう
初めて聞く声に驚いた
その声はなぜか心に響いてきたのだった
狐でもなく、鳥でもなく、人の声でもない
もしかしたら鹿が鳴いているのだろうか
あそこに
あの山にいる鹿がなにかを鳴いているのだろうか
そんな気がしました。
わからないまま
切なくなるようなその声に
耳を傾けていたのを思い出します。


数日後、その手がかりを得、知ることができたのでした。
(Facebookで教えてくれた人がいたのでした。ありがとう。)


「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」
 古今集 よみ人知らず

やっぱり
鹿だったのだ
あの鳴き声を聞いて同じように感じる人が時空を越えていたのでした。


音がつながった
情景と鹿の存在と自然の姿を教えてくれた
感じたことをつないでくれた
その瞬間
直接触れることがなかった多くのことを含んでいる音に触れ得たのだと感じました。
みみをかたむけたとき
見ることができない存在でありながら
そのとき耳に届いた音を通してのわすれられない出会いになったのです。

世界が愛おしく感じられました。

みみをすます
きこえているということと
みみをかたむけてきこうとすることとの違いは
まわりにあることを捉えようとするあり方の違いになり
世界を捉えるあり方の違いにつながっていくのかもしれない。

谷川俊太郎さんの詩「みみをすます」を思い出しました。
長い詩だけれども、ここにのせておきたくなったので、よかったら読んでください。
もう一度
「みみをすます」ときを大切にしようと思います。

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みみをすます       谷川俊太郎

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

みみをすます
いつから
つづいてきたともしれぬ
ひとびとの
あしおとに
みみをすます
めをつむり
みみをすます
ハイヒールのこつこつ
ながぐつのどたどた
ぽっくりのぽくぽく
みみをすます
ほうばのからんころん
あみあげのざっくざっく
ぞうりのぺたぺた
みみをすます
わらぐつのさくさく
きぐつのことこと
モカシンのすたすた
わらじのてくてく
そうして
はだしのひたひた・・・
にはじまる
へびのするする
このはのかさこそ
きえかかる
ひのくすぶり
くらやみのおくの
みみなり

みみをすます
しんでゆくきょうりゅうの
うめきに
みみをすます
かみなりにうたれ
もえあがるきの
さけびに
なりやまぬ
しおざいに
おともなく
ふりつもる
プランクトンに
みみをすます
なにがだれを
よんでいるのか
じぶんの
うぶごえに
みみをすます

そのよるの
みずおとと
とびらのきしみ
ささやきと
わらいに
みみをすます
こだまする
おかあさんの
こもりうたに
おとうさんの
しんぞうのおとに
みみをすます

おじいさんの
とおいせき
おばあさんの
はたのひびき
たけやぶをわたるかぜと
そのかぜにのる
ああめんと
なんまいだ
しょうがっこうの
あしぶみおるがん
うみをわたってきた
みしらぬくにの
ふるいうたに
みみをすます

くさをかるおと
てつをうつおと
きをけずるおと
ふえをふくおと
にくのにえるおと
さけをつぐおと
とをたたくおと
ひとりごと

うったえるこえ
おしえるこえ
めいれいするこえ
こばむこえ
あざけるこえ
ねこなでごえ
ときのこえ
そして
おし
・・・・・・

みみをすます

うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます

(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)

みみをすます
じゅうねんまえの
むすめの
すすりなきに
みみをすます

みみをすます
ひゃくねんまえの
ひゃくしょうの
しゃっくりに
みみをすます

みみをすます
せんねんまえの
いざりの
いのりに
みみをすます

みみをすます
いちまんねんまえの
あかんぼうの
あくびに
みみをすます

みみをすます
じゅうまんねんまえの
こじかのなきごえに
ひゃくまんねんまえの
しだのそよぎに
せんまんねんまえの
なだれに
いちおくねんまえの
ほしのささやきに
いっちょうねんまえの
うちゅうのとどろきに
みみをすます

みみをすます
みちばたの
いしころに
みみをすます
かすかにうなる
コンピューターに
みみをすます
くちごもる
となりのひとに
みみをすます
どこかでギターのつまびき
どこかでさらがわれる
どこかであいうえお
ざわめきのそこの
いまに
みみをすます

みみをすます
きょうへとながれこむ
あしたの
まだきこえない
おがわのせせらぎに
みみをすます

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「はるかな国からやってきた」谷川俊太郎 童話屋 から