2006年 ナイアガラの滝  ちょうど船の近くを鳥が飛んでいた

大きな滝だった
滝の名前は知っていた
大きな滝だということも知っていた
知識として知っているということと
それがどういうものなのかを知っていることは違うということも知っていた
知っているつもりだった

夏に行われる花火大会の目玉の一つだった「ナイアガラの滝」
きれいな光の流れが長く長く続いていた
ああこれがナイアガラの滝なんだと思った
花火大会の会場にいっぱいに広がる光の滝が大きく美しかった

渓谷をぬって流れる川の途中に大きな滝があると
何とかのナイアガラの滝との名称が付いていたりする
大きな滝なんだなと思った
大きな瀑布の迫力に心地よさを感じていた

本当のナイアガラの滝と
花火大会のナイアガラの滝とは違うということも
国内にある川がつくるナイアガラの滝は違うということも
知っていたはずだった

ナイアガラの滝は
水量も大きさもすべてが日本の国内では見ることができない大きさだった
この滝の向こう側はアメリカ合衆国
こちら側はカナダ
2006年、トロントに子育て支援の視察にいったとき
一週間の行程に一日入れられた観光で行くことができたナイアガラの滝
言葉で表すことができないほどの大きさに圧倒されていた

カナダの子育て支援にある背景につながる大地の姿の一部を感じさせられた

ここにつながる広大な大地の上で
人々が生きている
それぞれの背景をもって子育てをしている
いのちが育ち
いのちを育てている

そして地球はつながっている
いのちのつながりをみつめるとき
見えてくることがある
学びあうことがある
活かしあうことがある

今から14年前

50歳になるという前の年に
自分には世界を見る人生が訪れるとは全く考えていなかった
機会が訪れてもどれほど躊躇したことか
その背中を押してくれたのは子どもたちだった

子どもたちに育てられた親であり
子どもたちに励まされ続けた親であり
子どもたちに支えられ続けている親である

あとどれくらいの時間が許されているか計り知ることができないが
今やれることをしていくことなのだな
これからを生きていくいのちたちへ
自分の役目をつないでいくときにいるのだなと感じている