ヤマブキの葉の下から伸びたたんぽぽの綿毛

 子育てしていると、日常のいろんな場面でこれはどうしたらいいのかな、これでいいのかなと、迷うことがあります。私が子育てしていたときも、そして今もそうです。子どものために何をしたらいいのか、何を教えたらいいのか、自分はどうしたらいいのだろうと、考えては立ち止まることばかりでしたし、その繰り返しです。

 子育て中の方々とお話をする時、どこまでやらせていいのか、どこを叱ったらいいのかわからない。と困ったように話をしてくれることがよくあります。本当に悩みます。自分なりに懸命にやっているのです。そして、ときには、まわりからは甘やかさないでちゃんと教えないとだめでしょう、と言われたりすることもあったり。。。もっとちゃんと受け止めてあげてと言われたり。。。本当に本当にどうしたらいいのだろうと困ります。

 この子の年齢と様子を知っているからこそ、ゆっくり手を貸しながら教えているつもりが、ちゃんと自分でできるようにやらせないと、と言われ、できなくて泣いている子を受け止めようとすると、甘やかしてはいけないと言われる…と。。。どうしたら甘やかさない子育てができるのか、どうしたら甘えないで自分でやろうとする子に育つのかと、親である自分が負っている役割を真剣に考えるのですが、わからなくなってしまうことがよくあります。

 大丈夫。どうしたらいいのだろうと考えている、自分なりの方法をみつけようとしていること、それがちゃんと次につながっています。子育てにはすべての状況にあてはまる正解の答えがあるのではないから。子どもと一緒に自分たちにあった方法をつくって行くのです。そして、それは子育てを通して得られる子どもの発達の喜びであり、また大人の発達の喜びですね。大きくとらえるとそこには自分が育った経験からの習慣や価値観、文化の継承と見直し、発展も含まれています。さらに俯瞰すると社会全体、人類全体の喜びにもなるのですよ。

 自分たちにあった方法を自分たちがつくって取り組んでいくときに、全て手探りてやらなくても大丈夫です。自分の経験や価値観、まわりにある身近な人の経験や価値観、やり方を参考にし、手がかりにすることができます。経験をもとに新しい方法をつくり挑戦することもできます。いろんな情報をもとに考えて取り入れる、そのときには自分流になるのが子育てです。一人として同じ子ども、大人はいないからです。「みんなちがって、みんないい」金子みすゞさんが、「わたしと小鳥とすずと」で詠ったように、それぞれの違いがあるからいいのです。

 人間は考えることができるから、その人自身が考える手がかりを得て、自分らしく歩んでいくことができます。そんなときにこのブログが役に立つことができたら幸いです。

 ここでは、「甘やかす」「甘える」の違いを整理しながら考えてみたいと思います。
よくあるのは、人に頼ってばかりで「甘える」ような子にならないために、自分のことをちゃんと出来るようになるために「甘やかす」のはよくないと、思っていることです。だから、「甘える」のをいけないことと思って困ることになります。
 後半では、「叱る」ことと「教える」ことについて考えてみます。

「甘える」ことができるのは、人を信頼できるから

「甘える」ことは、本当にいけないことでしょうか。

 私は、自分自身が「甘える」ことが下手な子どもでした。そして、今も「甘える」ことが苦手です。でも、本当は心から安心して「甘え」られる関係を求めていました。大人になってそのことに気づく過程は辛い道のりでしたが、今は「甘えたかった自分」を大事にできるのでいい感じですよ。私だけではなく、結構たくさんの大人たちが甘えるのが下手ですね。そして、甘えてはいけない、と、踏ん張っているのを感じることがあります。よく頑張っていますね。

 かと思うと、とても上手に甘えることができる人を見ることがあります。本当にうらやましいと思います。いいなあ。見ているこちらがほっこりと心が緩んでくる感じがしてきます。(自分がぎりぎりの気持ちで「甘える」ことを否定しているときには、そう思えないのですがね。)

 いい意味で「甘える」ことができるのは、人と一緒に支え合う力があるということではないでしょうか。『困った時はお互い様』だから。辛いときは支え合う人達、社会、私たちでいたいものですよね。一人で踏ん張って頑張らなければならないときもありますが、そんなときも、自分でやることが大事だということを知っているから踏ん張る。人のせいにせず自分自身のこととして向かうことができるのです。そんな自分をちゃんと受け止めている。そんな自分を受け止めてくれる人がどこかにいることを知っているということなのです。

 子どもだった日々、たくさんの出来事や場面で、困った時、悲しかった時、辛かった時、ちゃんと見ていてくれて、受け止めてくれて、必要な手がかりを持つことができた、「甘える」ことができたひとつひとつのときは、自分と人と人生の一つ一つに起こる出来事の根っこを信頼する力につながるのでした。ちゃんと見ていてくれる人がいた、そんな自分をまるごと受け止めてくれていたという体験が深い信頼となり、人生を支えます。

「甘える」気持ちを受け止めて、どうしたらいいかを考える

「甘え」たい気持ちをちゃんと受け止めて、そして、どうしたらいいかを考えることが大切です。

「甘え」たい気持ちは、満たされると、動き出します。力を発揮することができる自分がいるからです。自分が力を発揮するのを見てくれている人がちゃんといるので、大丈夫になった自分は動き出します。そのときに、ちょっと必要なヒントや背中を押してくれる何かを見て取ることができる、そしてそれを子ども自身に差し出すのが大人の役割になることがあります。時間をかけて見守ることが必要なこともあります。それは、年齢によって、ひとつひとつ、そのときそのときの出来事や状況によって違ってきますが、そこを判断して一緒に歩むことができるのも大人の力です。そして、大人もその一つ一つの経験をしながら、一緒に成長します。

 大人は、自分を信頼して、まるごとさらけ出して甘えてくれる存在、ただただ自分を信頼しているその存在によって、自分自身の人生の時が新たな意味で満たされていきます。それまでとは違った経験をすることになるのです。いのちをつなぎ、いのちを育て、ともに育っていく喜び、幸せです。

 甘えたい気持ちを受け止めることに躊躇はしなくてもいいのです。そして、どうしたらいいかを考えていく知恵を持っている大人が、そこに居るのです。どうしたらいいかわからないときには誰かにきいたり、少し時間をかけて自分なりに方法を見つけてやってみたりできます。それが自分の経験になります。上手くいくことも、上手くいかないことも全て経験になります。そこから知恵が生まれます。その知恵と方法を見せていく工夫をしましょう。そこには、子ども自身が自分で取り組むことができるようになることがあります。

 ちゃんと受け止めてもらい、十分に甘えることができる子どもは、成長の過程で自分自身で歩みを作りだしていきます。そうなのです。甘えられた子どもは、自立した自己を育てる道を歩むことができます。

 気をつけたいのが、「甘え」たい子どもが、気持ちを受け止めてもらって満たされる前に大人が自分でやってしまうこと。それから、「甘え」た子どもが満たされて、動き出そうとするのを引き止めて子どもを囲ってしまうこと。これが「甘やかす」に繋がります。「甘やかす」ことを続けられた子どもは、大人になって「自分の都合で甘える人」になってしまうことがあります。それでは、周りの人とうまく関係をつくれません。いい意味での「甘え」は人間関係を相互に支えますが、「自分の都合で甘える」ことは、相手との関係を一方的なものにしてしまいます。

「甘やかす」と「甘える」は主体が違うのです

「甘える」ことは、信頼する人に自分をまるごと受け止めてもらうことでした。「甘える」は、「甘える」ことができる子どもがいるということです。そして、そこには、まるごと気持ちをそのまま受け止めてくれる人が居ます。

「甘やかす」のは、受け止めることを自分の都合で変えてしまう大人自身のための行動です。「甘え」たい子どもの気持ちが満たされて自分から動き出す前に、大人自身が受け止めきれなくなってしまい、解決の方法を自分がやりやすい方法で見つけて大人が自分でやってしまうことです。また、子どもの「甘え」たい気持ちを受け止めきれなくなった大人が、先回りをして予防してしまうことがあります。やりすぎると「甘やかし」になります。どちらも、子どものために一所懸命な姿に重なりますが、子ども自身が力を発揮していくことへの手助けが取り除かれてしまいます。一時的に子どもは助かります。また大人も自分の力を発揮できるので満足します。でも、この状態が続くと、それを子ども自身が、自分とまわりとの関係のスタイルとして学んでいくことで、様々な場面で自分自身が取り組んでいく経験を弱くしてしまいます。誰かがやってくれることを期待するということになります。これが「甘やかす」ということになります。

「甘やかす」ことは、大人自身が自分のやりやすい方法を自分の気持ちを先に優先して行う行動のことですね。子どもは、子ども自身をしっかり受け止めてもらったということをあまり実感できないままになりやすいでしょう。

「叱る」と「甘やかさない」は別の姿

「甘え」ることをちゃんと受け止めることは、子ども自身が自分で動き出すことを支えることでした。

では、「甘やかさない」で、ちゃんと「叱る」ようにしなければいけないというのはどういうことか考えてみます。「叱る」と「教える」ことを考えてみましょう。

 「叱る」ことは、時には必要になることもあります。たとえば、危ないとき。怪我をしそうなときや物を壊しそうな緊急性を感じるとき、人としてやってはいけないことをしたときなど。しっかりとした声、口調、表情で叱ります。それは、その行動をその時にしっかり止めるため。それをやってはいけないことを伝えようとしている大人に注意を向けるため。そのことに気付いてほしいのです。たいていの場合、短い言葉で終わります。行動が止まったら、あるいは行動を止めたら、その後は大人がその子がわかるように教えることになります。年齢や状況、事柄によって、教えることややり方は判断しながらになりますが、大きな声や口調はここでは必要ないです。というより、わかってほしい内容を教えるときには、大きな声や口調ではかえって、その内容が伝わらなくなります。伝わるのは、大きな声と厳しい口調のもつエネルギーの強さです。これが重なると、内容を深く受け止め考えることではなく、強いエネルギーを向けている人との関係をどうやって保つか、修復するか、そこから自分を護る為の方法を見つける工夫が始まります。

 日常生活の中で、よく叱っていると、効果がなくなってきます。何のための効果でしょうか?そう、しっかり注意を向けて気づいてほしいことを伝えていることに、気付いてその後にくる教えることを学び取ってほしいのですが。。。日常でよく叱る回数が多くなっているときには、止めていることを繰り返していることがよくあります。ただ止められていることが重なると、やりたいこと興味を持ったことを止められることがなぜなのか、どうしたらいいのかがわからないまま、やっぱりやりたいので、繰り返してやろうとする。また叱られる。というサイクルが生まれます。こんな時は、大人が「叱る」とき、何を教えたいと思っているのかを振り返ってみることがこのサイクルを変えることになります。

ね。「叱る」ことは、それだけでは「教える」ことにはならないのでした。

 危険な状況、すぐに止めないといけない状況などはそんなにしょっちゅうは無いと思います。もし頻繁にあるようでしたら、親としてとても悩み疲れる日々を過ごしていることでしょう。親が一人で全て対応しようと無理をしないで、どうすることが安全に安心して経験を積むことになるかを一緒に考えることができる人や場所・機関を利用しましょう。相談できるところがあります。子どもと自分たちにあった方法を見つけることができるといいですね。ひとつひとつ自分たちにあった方法をみつけながら、すこしずつ取り組んでいくこと、支え合うことを大切にしましょう。

 実は、大きな声や口調で「叱る」ことをしないでも、気持ちを受け止めながら根気よく教えていくことが、わかってできることにつながるのです。時間がかかるようでいて、長い目で見ると効果的なのですよ。普段の生活の多くの場面では、その一つ一つに沿って、やって見せ、一緒にやって、やってみようとすることを認めて、できたことをほめていくことを繰り返していくといいですよ。

くりかえし、くりかえし、です。

そうしたら、ちゃんと、その子が自分でやってみようとして、自分でできることにつながることになるように教えているのです。

大人もいい意味で「甘え」支え合うことを大切に

 子どもの「甘え」たい気持ちをまるごとそのまま受け止め続けることは、決して容易なことではないものです。大人にもいろいろな感情や状況があります。日々終わりのない生活の営みを支え作り続けることと、子どもがやることと子どもを育てるということに起こる様々な事柄は一人の肩にのしかかると実に大変なものです。子育ては一人で全て担い続けるのがいいのではありません。親だからと全て担わなければならないのではなく、親が子どもと一緒に、周りと支え合いながら育ちあうことができるために、いい意味で「甘え」ることを考えてもいいと思います。子育て中の皆さんが、そうできる社会や環境を大切にしたいものです。