「統合」ということ
我、老年期入り口に立つ、のでした
65歳を目の前にして、様々なことを振り返ることが多くなってきました。どうしてこんなに今までのことを振り返るのだろうと思っていました。新型コロナ感染症拡大にともない仕事の量が減って時間ができたこともあるからなのかな。とか、おばあちゃんとしての自分や、両親のことを考えることが多くなったからかなとか。いろいろと思いながら、ふと気づいて、自分が65歳になろうとしていたことに、やっと思い当たったのでした。
おもしろいですね。年を聞かれれば「64歳(もうじき65歳)です。」と答えることができるのに、自分が64歳というのをどこか数字だけをなぞっているようで、実感は別の所においていたのでしたね。年金のことを考えたり、ワクチン接種の高齢者としての対象になっているにもかかわらず、なぜか自分事としての老年期(老齢期)は別の所にありました。いやいや、自分のことを考えていくのにぴったりになってきていました。ある本で、エリクソンの心理社会的発達理論を説明している文章のなかに、老年期は60代後半からと記述があるのを読みました。やはり、そうですよね。
「老年期(高齢期)」とは、どこかで、私の両親のことだと思っていました。両親はそれぞれのやり方で、自分の人生の終点を見据えながら、どう伝えようか、何をどうやって後に続く子どもたちや孫たちに託していこうか、など、よく話をします。そしてまた、これまでのことを思い出して、自分の人生を振り返る中での葛藤と向き合いながら死を見つめて生きていこうとしています。身近にあった人たちが、次々と人生を離れて行くのを見送りながら、自分のことを否応なく考えるのは自然なことなのでしょう。子どもとしての私は、それを聞いているのは、落ち着かない気持ちになるのですが、大切なことでもあると思い直りながら、できるだけ想いを聴いてきました。最近は、遠く離れていることと、更に新型コロナウィルス感染症対策の為、行き来ができにくくなり、なかなか会うことができなく電話でちょっと話すのみになりましたが、状況が許せばできるだけ行って顔を見たい、話をしたいと思っています。
「老年期」ということばについて、少し整理してみます。
エリク・H・エリクソン(1902~1994)は、その心理社会的発達理論の中で「精神発達、人格発達といったことは、生まれてから死ぬまでの長い人間生涯全体のテーマ」であり「ライフサイクル」という言葉を使いました。私は、発達を学ぶ中で、エリクソンの考えに学ぶところが大きくありました。エリクソンは、人生のライフサイクルを8つの時期に分けて、乳児期から老年期に至るまでのあいだに8つの心理社会的危機を認めています。ここでいう「心理社会的危機」については、「人がそのライフサイクルの中で、次のステップに進むか、逆行したりするか、それまで経てきた発達の過程に逆戻りしたり、横道に外れて進んでいったりする『分岐点』ないし『峠』を意味している。・・・発達のためにはむしろなくてはならないものであり、それまでの心的体制が、次の新しい心的体制に向かう時に再体制化されていく時期としてとらえられている。それ故に、この危機は、われわれが日常生活の中で、人生の『節』といったりすることばに極めて近いということができる。(鑪幹八郎)」(「発達の理論をきずく」別冊発達4 村井潤一編 ミネルヴァ書房・エリクソンについての引用出典・以下同様)と、あります。
「人生の最後である老年期の心理社会的危機は統合『対』絶望である。」「統合という意味は、『秩序を求め意味を探す自我の動きを信頼する確信である』・・・高価な代償を払ってでも、世の中の秩序や精神的意義を伝えようとする活動である。自分の唯一の人生を、取り替えを許されない、あるべき人生だったとして受け入れる力である。これらのことは『老い』や『死』をどのように受けいれるかによってはっきりと示される。」
「個人にとって自分の人生と死は歴史のほんの一区分の中で、一つのライフサイクルが一致した現象に過ぎないものである。われわれはそのことを知っている。」
「避けることのできない死を受け入れることは、これまでの自分の人生を受け入れることであるし、自分の残すものを引き継ぐ、次の世代が信じられるということであろう。世代への深い信頼が世代の継続を意味するのであり、世代の持続を意味するのである。・・・つまり、個人の信頼と世代への関心が『心的現実』として引き継がれていくということである。
このようにして、自我の統合性は、指導者としての責任を受け入れるばかりではなく、参加者、従属者としての役割をも受け入れるのである。個人的関心、家族的関心を離れ、国家的関心、人類的関心へと拡大し、これらの関心の中で情緒的な統合をはかっているものである。」
ここの引用では、「絶望」の説明にあたる部分は長くなるので入れてありません。
父と母は、「統合」と対になる「絶望」を行き来しながら、「統合」に向けて葛藤をしている姿を見せてくれていることに、私は、複雑な言い表しがたいものを感じています。二人にとって、それぞれにとって、大切な作業であります。
老年期入り口に立ったばかりの私が取り組んでいること、父と母が取り組んでいることをみているとあきらかに違うと感じます。人生の受け止め方、感じ方が違うのを感じます。これは個人的な違いということではなく、質的な違いのように感じています。その違いには、たちうちできない荘厳なものがあります。今は、父と母の取り組みを大切に見守り、その姿が教えてくれる大いなる学びを尊重すること、それらをまるごと受け止めさせてもらうことが私の役目なのかもしれません。実際には、現実的な両親の願いや要望をそのまま受け止め実現できるということではありませんが、それらを越えて、伝えられるものがあります。
そして、まず、私自身が、自分のこの時期の入り口に立った者として、自分の課題を見つめます。今だからこそ、見つめとらえることが必要になってきているのを感じています。もちろん、多くの場面で両親との関わりからも見つめていくことが必要になることがあり、その点については整理していこうと思います。漸く、ここにきて、この人生に、自分の課題が大きくあることにちゃんと気付き、向き合おうとすることができるところに、たどり着いたのです。
私は、自分自身の人生、存在していることへの信頼に対する自分の中にある危うさを見つめることが必要なようです。よくこれまで生きてこれた、よく、今こうしてここに居ることができていると、どこか人ごとのようでもあり、投げやりでもあることを、大きく包んでなお広がる生きていく力を持って、考えていこうとしていることを、大切に受け止めることができる入り口に立っています。
統合と絶望の狭間に立つ自分、自分が、その「節」を見つめて受け止めていこうと取り組むことができることは、ある意味で大事なきっかけを得たことになると思えるのです。
ざっと振り返ったとき、私は生まれてから今まで、6回の生と死の狭間にあった場面を思うことができます。それらは、しばしば、自分の中で、今の自分の振り子が大きく揺れる時に思い出されて影響を与え続けます。そして、おそらく、最も大きな出来事、そのことによって、私はある部分が10歳頃からストップしたまま傷を大きく抱え続けています。そのことが、心的危機的状況を刺激するところにあるのを知っていたのです。でも長い長い間、表に浮かび上がらないように蓋をして記憶の底に沈めていました。少しずつ少しずつ、取り組んでみます。その為の準備は、少しずつ少しずつ意図せず行われてきているように思えるのですから。それも人生のライフサイクルの中で起こっていることなのでしょう。
漸く今になって、と思い、また、一方で、
今が、ベストなときなのだ、と思うことができるのです。
老年期の入り口という年齢、それは、エリクソンの老年期のとらえから学び、自分自身の成長への一歩としてとらえることができるからなのです。
ありがたいことです。