こころの雫一滴 (つぶやきひとつ)
絞り出されたひとしずく
いつの間にか、「おばあちゃん」とリアルに呼ばれる歳になり、自分の両親に介護の心配をする年齢になりました。子どもたちが一人の大人としての日々を重ねているのを、手が届かないところでそっと感じつつ、離れていることから見守るしかない自分の立ち位置に、寂しさと同じくらい気楽にいさせてもらえる子どもたちの頼もしさに支えられているのを感じるようになりました。子どものことを心配しているつもりが、心配されている自分を知るようになったのは、有り難いようでもあり、ふと「さあて、これからどうしようか。。。」と自分の立ち位置を見つめるときに来ているようです。
おばあちゃんの役目を通して、親としての役目の在り方を通して、今ここに来て、自分が通ってきた道を振り返ることになるとは、思っていませんでした。新しい体験からの学びや喜びと同時に、自分自身への気づきに苦しくもあり戸惑いながら立ち往生しました。そして、ここに来て更に貴重な一歩を踏み出せるのだなと、絞り出されたことから抱え続けていた重荷を下ろすことができることを知りました。
一方で、離れたところに住んでいる両親は、90歳を挟んでの年齢ながら、二人で生活をしています。二人共に癌を患い、それぞれに手術を経て、父は一時は自分で起きることができない状態でした。今は日々の生活を自分たちで過ごすことができています。色々な経過を経て、今必要なサービスを受けながら、毎日を積み重ねているのを、電話を通して知ることができます。遠く離れていることから、娘として実際にやることができないことが多い現実と、その中で見せてくれている二人の姿から、人が持ついのちの力を見せてもらっているのを感じています。これまで、私が両親の元に帰って一緒に住むことにしようかと話し合いを重ねました。その度に、そうしたいという想いと、そうできない想いが交錯して葛藤が起こりました。自分の中で何が動いたかを見つめる作業は苦しくもありましたが、大切なことでした。
親としての自分、おばあちゃんとしての自分、子どもとしての自分、一人の私自身としての自分、それぞれに、見つめる機会が重なっているこの時期につぶやいたこと。つぶやくというより絞りだされてきたことから見えてくれることがありました。
おそらく人は誰であっても、自分にとって身近で大切な人との関わりの中にあることからいろいろなことを感じて生きているのでしょう。それは決して皆同じではなく、一人一人その方にとっての独自な中身でもあるのでしょう。私自身に起こっていることを通して、「こころの雫一滴」をつぶやいてみたいと思います。