2020年8月15日
終戦を迎えて75年の今日、正午に地域のサイレンが鳴りました。75年の歳月を今年はひときわ心に深く受け止めている自分が居ます。
今、地球は世界中で新型コロナウィルス感染症で多くのいのちを失い、また感染の広がりの中でいのちへの不安を抱えながら新しい生活や社会のありようを模索しているところにあります。その中で、いのちをみつめ、いのちを大切にする生活や社会をつくろうと多くの人が真剣に取り組んでいることが伝わります。
だからこそ、75年前の出来事が時空を超えて身近に感じられるのでしょうか。
たくさんの、本当にたくさんのいのちが奪われた戦争。その時を生きた叔父・耕三郎がいたのです。父の兄・耕三郎は、大正13年8月に誕生しました。
その時、祖父・鑑二は新しい命の誕生につぎの文章を書きしたためました。
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耕三郎 出産
大正十三年八月六日午前四時
耕ちゃん
お前が私達の子として
この世に生まれ出たのだ
お前にと
人類とに対する
私達のつとめとして
お前を充分に育てる役が
今私達に
新たに加へられた
私は
前から
お前が生まれたら
コー育てたい
アー育てたい
と考えていた
お前が立派な学者であって
ほしいとも思ふていた
お前が立派な詩人であって
ほしいとも思ふていた
お前が百姓であってほしい
とも思ふていた
けれども
今
お前の生まれたことを聞いて
私は
お前が
ホントの人間になってくれい
と念ずるのだ
お前が
ホントの人間になって
お前の十字架を負うて
雄々しく
お前の人生を生きていけ
お前がそのために
金のないことを悲しむな
世の所謂成功者にならうとするな
お前の名は
武蔵野の土を十数年
貧と世間の無理解とと
戦って耕して来た
又自分の魂の問題に悩み
且生かした
私の尊敬する江渡幸三郎さんの
幸三郎から
耕三郎と名づけることにしたのだ
江渡さんが
ドコまでも
世の魂を殺すものを避けて
魂を大事に育てたやうに
ドーかお前も
お前の肉体を殺すものは
おそれず
お前の魂を亡ぼすものを
おそれて
生活してくれい
耕三郎
ホントに人間に
ホントの人間になって
おくれ
(13、8、6 朝)
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祖父のいきいきとした新しい命を迎えた思いが胸を熱くします。私は耕三郎叔父を写真でしか知りません。写真の中で叔父のまっすぐな眼差しがつたえるものは何だろう。会ったことの無い叔父を想います。
耕三郎叔父は75年前の8月12日に亡くなったのでした。終戦の3日前です。耕三郎叔父は満州にいました。
75年前終戦の日を迎え、祖父達は僅かな帰還の望みを持ち続けながら暮らしていたのでしたが、耕三郎叔父のことについては人づてに病死したとの連絡を受けていました。
昭和23年9月19日(日)の祖父の日記から
□九月十九日(日)
▲耕三郎は二十年八月十二日、富錦付近の戦闘で戦死した由公報が来てあった。やはりソーだったと思う。やはり耕三郎らしい一生であった。不惜身命惜身命、よく戦うてくれた。それにしても戦車に空手同様で戦うなんてあまりに無茶だ。
そして、平成に入ってから祖母の遺品の中に見つかった「息子の死」について祖父が反古紙に書いてあったものがありました。
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息子の死
昭和二十年八月十二日
満州三江省富錦陣地で
三百米前に来襲したソ連軍戦車に
肉攻して擱座
その場に戦死したという告知書
昭和十五年三月
独りで開拓の苦労をしてみたいと
十七才で義勇軍に参加して渡満し
昭和十九年帰省し
秋には現地入営したのだった
ある時の手紙に
友達と話し合ったことを書いてあった
戦死ということについて
『戦死必ずしも良いことでない』と
『死なぬものあってこその勝利』と
不惜身命 惜身命
お前のいう通りになった
不惜身命だけでは足らぬ
惜身命も知らねばならぬ
お前はよくやってくれた
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祖父の想いを想い、叔父の想いを想い、そして、この紙を持ち続けていた祖母の想いを想い、私は今を生きているのです。
過去に生きるのではなく、今を生きて、いのちを想い大切にすることを切に切に想い続けたかけがえのないいのちから、つぎにつながるいのちを育てる想いをつなぎます。
終戦75年にあたって。