伊藤紀子さんの講演記録③
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少し本を具体的に紹介したいと思います。
最初に「子どもたちが危ない」というこの本を紹介します。著者は、佐藤忠良さんとおっしゃいますけれども「おおきなかぶ」という絵本をご存知でしょうか。あの絵本の挿絵を描いた方が、佐藤さんなんです。彼は彫刻家でいらっしゃいます。本当に素晴らしい作品を残している彫刻家でいらっしゃるんです。この方は、戦後シベリアに抑留されました。シベリアっていうのはとても寒くって貧しい土地だそうですけれども、そこで抑留生活を送ったのです。当時60万人という日本人がシベリア抑留の体験をしています。佐藤さんがここでお書きになっているのはね、軍隊というのは秩序だっている、でも、収容所にはこの目的も秩序も何も無いということです。つまり、肩書きが全部取られた生身の人間がぽんと60万人集まると、いったいどういうことが起こるのか、佐藤さん自身もシベリアの抑留生活を体験して、自分自身も見えなかった部分に気付いていくんですね。そこの部分が分かりやすい文章なのでちょっと読みますね。
-(以下参考文献・岩波ブックレットNo.41佐藤忠良著「子どもたちがあぶない」より)-とお書きになっているんです。
この「考えながらものを創り出す仕事が出来る」ということは、どういうことだろうか、ということをちょっと考えてみたいんです。ものを創り出すというのは、こういう形のある物を創り出すと言うことのほかに、お母さんやお父さんに本を読んでもらう、お話をきかせてもらうという中で聞き手がどういう作業をしているのかというところを考えたいんです。
さっき、「ももたろう」の話を館長さんがして下さいましたけれど、あの「ももたろう」の話を皆さんがお聞きになっているときに、お父さんと子どもの面白いやり取りがあったけれども、あ、子どもはどんなふうなイメージかな、お父さんってどんなイメージかなって、館長さんがおっしゃる言葉を頼りに皆さんの中で自分だけのイメージをたぶん作りあげていらっしゃったと思うんです。そのことがここにつながると思うんですけれどどうでしょうか。
お話をきくということは、聞き手の子どもたちは皆一人一人のそれぞれの世界をちゃんと創り出しているということ。その力が、自分で想像して何かを創り出すという力が、佐藤さんが「実は私の命を救ってくれたんですよ」というふうに書いていることなんです。それは、命というだけじゃなくて“人間性”っていうかな、自分を見失わないで何とか生きながらえられたのは、やっぱり“自分自身が物を創り出す力があったからだ”ということ。
娘さんの佐藤オリエさんは女優さんになられて、息子さんはお医者さんになられたようですけれども、あの佐藤さん自身はこのシベリア体験で、やっぱり自分が庶民の中のいい顔っていうのを見落としてきたということに気付くわけです。やはり、庶民の中にこそ、あの人は“どこどこの何とか先生”ではなくても、その人の人生を感じさせるといってもいい表情を持った人が、実は隣にいた、ということに、佐藤さんは気付いていくんです。佐藤さん自身の作品も、このシベリア抑留の体験を通して変っていくんですね。
佐藤さんは大学の先生もしておられて、あるとき講演に行ったそうです。そしたら、会場の若い青年が手をあげて「自分も彫刻をしているけれども、いい彫刻をするには何かコツというものがありませんか」というふうにきいたんですって。
佐藤さんは面白いたとえを出しておられるんです。
「たぶん君たちの人生は冷蔵庫に食べ物がいっぱい詰まっている状態でスタートしているでしょう。だから冷蔵庫の物を食べ尽くしたらあとどういうふうにしていいかわからない。でも僕たちは、たとえ冷蔵庫の中の物を食べ尽くしても道ばたにはえているタンポポやハコベをゆでて食べることを知っていますよ。」って「だから、コツというのは失敗したりキャリアを積まないとつかめないから、コツはコツコツやるしかないんですよ。」って言ったんですって。
“合理的”の名の下で、私たちも随分無駄をしなくなっているんですね。でも、実は無駄って大事だったんだなって思うんです。
私たちが子どもの時に宿題で何か調べに図書館に行っても、当時はコピーなどは図書館にありませんし、そんなに子どもがお金を持っているということはありませんでしたから、なんだか訳が分からないけれどまるごと写したんです。その中で、このことを知りたいんだけどもこの周りにあることも無駄をしながら知っていったっていうこと、ありませんか?今はコピーがあります。お金も持っていますから、ここを写したいといえばパッとすぐに目的に到達する。だけれども回り道をするっていうのはそのことの周りのいろんな事どもを一緒に見ていくということなんですよね。佐藤さんは、そんなことをおっしゃっています。
母方の祖母の家にいろりがあって、そこが茶の間のようなものになっている。けれども、かつてはそこに裸電球が一個しかない時代もありました。私はその記憶はあるんですね。祖母が台所に立って仕事をするときは、その裸電球をひょいと持っていって掛けて仕事をするんです。そうすると、いろりばたのところはいろりの火がポーッと明るい。それだけの光の中で少し我慢している。
今、その同じ家はどの部屋も電気がつき、そしてどこの部屋も同じように暖かくなる。随分あたたかいし便利だし、まあ、よかったね、という言葉が出るわけですよね。私は、もっと不便な時代を知っているから、今そういうような状態でいいねえ、あたたかくていいねえという言葉になるけれど、今生まれる子どもたちは、私がいいなあって思うのが最低の線だとすれば、もうスタートからこんなに違っているということですね。
私は、人間の本質というのは絶対変っていないと思います。どんなに現代的な人でもね、やっぱりお話をきいたり本を読んでもらったりするとホワーッとした何だかいい気持ちになるというところでは、人間は変っていないと思うけれども、確実に私たちの子どもの頃育った環境と今の子どもたちの環境が違っているという認識をしないといけないと思います。
叔母がよく私に言いました。「私にとってご馳走は、昔、キャラメルだった。キャラメルはご馳走だった」って。おやつといえば、私もさつまいもをよく食べましたけれども、さつまいもとかジャガイモとか、焼きおにぎりだった。「キャラメルなんてホントになにかの時にしか食べられなかった。だけど、紀子たちはもうキャラメルが普通なんだね。」と言ったのを覚えているんですけれど、その時点でもうスタートがすでに違っているんですね。
そういうことの認識をしておかないと、果たして今の子どもたちが物で囲まれていることが本当に幸せなのか、そこのところを私たち自身が考えておかないと・・・。“私たちの時には無かったから”、つい“自分の子には”っていうのが親心であるんだけれどね、そのことが本当にその子にとって幸せなのかなということをちょっと考えてみたいと思います。
いくつか子どものことに関して新聞の記事を持ってきましたので、皆さんもご記憶を辿りながらちょっとお聞きいただきたいと思います。
三年前の記事になるんですけれども「少しだけ子どもと話を」というテーマで朝日新聞の社説に載っていたんです。中学生の子どもに「今あなたにとって一番必要なものは?」というテーマで作文を書かせたそうです。中学二年生の男子の答えを一人ずつ並べてみると「水、金、現金、貯金通帳、先生、お金、貯金通帳、お金、金、水、食い物、お金、お金、教科書、食べ物、お金、お金、・・・」女の子「お金、お金、お金、友だち、地球、お金、家とこたつ、トイレ、お金、お金、・・・」と続きます。
良い悪いということではなくてね、たぶん、これが現実なんだろうなと思いました。テレビを見たって、やれ買え、それ買え、新しいのが出た、前のはこんなにダメだっていうことをあれだけ矢継ぎ早に宣伝されればどんなに意志の固い人でも、ああやっぱりあっちの方がいいなって思うのは当たり前でしょう。私はテレビのコマーシャルに乗せられる私たちもちょっと反省しなければいけないなと思うんですけれど、自分たちで生み出すことではなくてすべて消費することだけを煽るようなテレビの宣伝ではありませんか。
ここにちがう統計が出ています。東京の例だとルームエアコンも半数の家庭が持っている。小学高学年と中学生の九割が自転車、七割弱が腕時計、六割がラジカセ、四割近くゲーム用コンピューターを持つというのです。その他にテレビが一台だけでなく何台もあるというお家もあるでしょうし、それから子ども部屋に今でいえばCDプレーヤーなどを入れた家もあるかもしれません。子ども専用の電話をつけているお家がこの新聞を私が読んだ時には別の統計ですけれど、小学生で3%、中学生で6%、という数字だったんですね。ところが、昨年きいた数字は、小学生で6%、中学生が9~10%という数字になっています。
先程いろりばたの話をしましたけれども、私たちは不便だったから、家族が集うというにもこたつがいろりばたのそばに一個しかないから、否応なしにそこに集まったんですね。生活の中で自然に。
でも、自分の部屋にテレビはあります、音楽を聴く装置はあります、ちょっと寂しくなったら人の声を聞く電話もありますということになると、家族同士の丁寧な人間の付き合いも、もう、なんか出来なくなっている状況にある。茶の間とか、食堂いうのはね、てんでに自分の好きなことをしていてフッと寂しくなったとき、茶の間に行くとおばあちゃんがいつも座っているな、誰か家族がいるな、とかね。そこでふたこと(二言)みこと(三言)話したり、ちょっとお茶を飲むということでまた力が湧いて勉強したり何か仕事をするという、そういう役割があるでしょ。でも、こんなに自分の周りに寂しさを慰める物があるのならば、何も茶の間に集う必要はなくなってくるというかなり厳しい状況ではないでしょうか。
友人の新聞記者が、女性の新聞記者ですけどね、「あのね、こういう子がもう出てきちゃっているのよ。」という話をしてくれたんです。ある青年が、十代の高校生だそうですけど、「人間の友だちってさあ、泣いたり、笑ったり、怒ったりするでしょう。あれ面倒くさくっていやなんだよね。だけどね、僕のキキちゃんは僕を裏切らないんだよ。」って言ったんですって。キキちゃんって何だと思います?キキちゃんは機械のキキ。彼にとってはコンピューターが親友なんです。彼は編み物が得意で、キキちゃんのために洋服を編んで着させたりしてるという。でもこれ、特殊な例じゃあないんですって。そういう子がとても増えているそうです。機械の方が面倒くさくなくていいという。
だから、違うんですよね、私たちが子ども時代を送った時代と、今の子どもたちとは。
だとすれば、何を大事にしなければいけないかということを、もう一度ちゃんと考えておかないといけないんじゃないかなと思うんです。私は、そういうふうに考えたときに先程ご紹介した佐藤忠良さんの「子どもたちがあぶない」と出会ったんです。
人間にとって何が幸福なのか、その事をちゃんと佐藤さん、この本の中で私たちに伝えて下さっていると思うんです。
次に続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・